春帆楼の歴史
       
     
歴史の舞台・春帆楼
数々の歴史の舞台となった関門の急流を望み深い緑に抱かれた佇まい美しい下関の迎賓館です。明治21年、伊藤博文公が春帆楼でふぐ料理を食されたのを契機にご禁制が解かれ、春帆楼がふく料理公許第一号の栄誉を担ったのです。下関ではふぐを“福”に通じるということで「ふく」と呼び慣わします。眼下に広がる関門海峡を望みながら、四季折々の見事な自然の装いとともに、新鮮な海の幸でも、訪れる人々の旅情を満喫させてくれます。なかでも、味覚の王者といわれるふぐ料理は贅を尽くした逸品です。明治の薫りを今も伝える格調と気品高い雰囲気のなか、料理人のこだわりと至極の技が創り出す一流の味を是非お楽しみください。

春帆楼の発祥
下関春帆楼の住居表示は下関市阿弥陀寺町。阿弥陀寺というのは赤間神宮の旧称ですが、今ではそのことを知る人も少なく、同境内の「安徳天皇阿弥陀寺陵」にその名を偲ぶだけです。阿弥陀寺は、慶応4年3月の「神佛分離令」に伴う廃仏毀釈によって廃寺となりましたが、その「方丈の跡」は眼科医・藤野玄洋が買い取り、明治10年新たに月波楼医院を開業しました。
その後、妻のミチはこれを改造して割烹を兼ねた旅館を開業しました。三棟あったこの店は、向かって右から月波楼、春帆楼、風月楼と呼び分けていました。その中の春帆楼という名称を伊藤博文公が名付けたものだそうです。「春の海の帆船」を心に描いて「春帆楼」と名付けたそうです。伊藤博文公といえば初代総理大臣、あるいは、かつての千円札を連想しますが、春帆楼の「ふぐ」を公許してくれたことでも知られています。
       
   
春帆楼の戦後
昭和20年の戦災で全焼した春帆楼は、戦後まもなく復興、関門国道トンネル開通時と山口国体の際には昭和天皇・皇后両陛下がお泊りになり、海岸沿いの国道は夜を徹して、揺れる市民の提灯で埋めつくされました。そして、朝な夕な黄金色に輝いて美しい現在の建物は、昭和60年12月の全面改築によって再オープンしたものです。
 
       
   
日清講和条約
明治28年3月、日清講和条約の会場選びは、長崎、広島など幾つかの候補地があげられていましたが、1週間前になって伊藤博文公が「下関の春帆楼で」と発表して決定しました。この談判は、世に「下関条約」と呼ばれていますが、わが国で地名のついた条約はここと「下田条約」くらいのものでしょう。
 
       
   
日清講和記念館
春帆楼が歴史の1ページを飾る場となった証しが、春帆楼に隣接している日清講和記念館。時代が揺れ動く明治28年、日本側が伊藤博文、清国側から李鴻章、両国の全権団が集まって開かれ、11ヶ条からなる講和条約がここ春帆楼で締結されました。その当時を偲ぶ椅子やテーブル・硯など会談の場をそのまま保存してあり、資料も多数展示されています。歴史の檜舞台を目の前にした時、その迫力と重みを実感いただけます。是非一度ご来場ください。